仲町通りの歴史


江戸時代から花街とともに歩んできた仲町の歴史を時代ごとに振り返ります。

江戸時代

 ここ池之端仲町の歴史は江戸時代に遡ります。いまでは繁華街として夜に賑わいをみせる仲町通りですが、そのはじまりは寛永寺の門前町でした。寛永寺は、江戸時代には現在の上野公園一帯を境内地に持つとても大きなお寺でしたので、不忍池のまわりに並んだ仮設の茶屋では参拝に訪れた行楽客が多く集まり、芸者を相手に酒や料理を楽しむ茶屋遊びが賑わいをみせるようになりました。また、周辺には文人と呼ばれる画家や書家たちも多く住んでいました。
 不忍池の端にある池之端仲町通りは、寛永寺や湯島天神などの社寺に囲まれて、多くの人々が行き交う江戸有数の通りでした。現在も、薬の「守田宝丹」、組紐の「道明」や櫛の「十三や」など、江戸時代からの文化を受け継ぐ老舗が残っています。

明治時代

 明治時代にはいると、上野の山は持ち主が寛永寺から明治政府にかわり、日本で最初の公園となる上野公園が誕生しました。公園では博覧会が開かれたり博物館や美術学校が建てられたりと、今日につながる近代的な文化空間の礎がつくられました。のちに東京藝術大学となる美術学校が上野の山に開かれたことで、周辺には美術家や工芸家、そして学生たちが多く集まるようになります。仲町通りにも彼ら芸術家たちが出入りするようになり、サロンなど文化交流の場としての役割をはたしていたようです。一方、不忍池の周囲にあった仮設茶屋は常設化され、池之端仲町界隈は、待合・料理屋・芸者置屋で構成される三業地、つまり花街として東京でも有数の花柳界となっていきました。

大正時代

 明治28年の日清戦争での勝利からその後の大正時代にかけて、下谷花柳界は最も華やかな時代を迎えたといわれます。数寄屋町と同朋町あわせて、芸妓屋は180軒あまり、常に300人から400人の芸妓を抱え、上野公園や不忍池、池之端に並ぶ料理店や待合と呼ばれるお座敷が繁盛しました。当時の芸妓は現在のアイドルのような存在でもあり、人気芸妓は新聞や雑誌で取り上げられたり、写真やイラストが広く出回ったりしていたようです。大正3年の東京大正博覧会では、不忍池畔に園遊会場が設けられ、昼には下谷芸者のほか新橋や赤坂、柳橋などの芸者が出演して美しさを競いました。日清・日露戦争や第一次世界大戦による好景気やその後の戦後恐慌など、浮き沈みの激しい世相のなかで、花街は発展を続けました。

昭和時代(昭和30年頃まで)

 大正12年の関東大震災では東京の下町地域全体で火災が発生し、仲町通りもそのほとんどが焼失しました。しかし、下谷花街の復興は目覚しく、震災から六年後には待合が通りに立ち並び、芸妓は400人を突破するなど、瞬く間に華やかさを取り戻しました。また、震災復興事業のなかで、江戸時代以来の街区の整理や道路の拡張がなされ、それまで文字通り「池の端」だった仲町通りと不忍池の間の小道も広げられて自動車が走るようになりました。こうして震災からの復興を果たした下谷花街でしたが、第二次世界大戦の戦時体制へ移っていくなかで閉鎖され、昭和20年の東京大空襲で再び焼け野原となって、終戦を迎えます。昭和25年に花街は再開されましたが、かつての賑わいを取り戻すことはできませんでした。

昭和時代(昭和30年代以降)

 昭和30年代以降、労働基準法や売春防止法、風俗営業取締法などの施行をきっかけとして、芸妓の働き方やお座敷文化は大きな影響を受けることとなり、下谷花街は衰退していきます。それにともない、以前は花柳界を中心に形作られてきた仲町の街並みも変貌を遂げることとなりました。昭和40年代にはまだ三味線の音が通りに響いていたようですが、建物が高層化・テナント化していくにつれて次第にキャバレーや風俗店、飲食店などが増えていきました。花街としての歴史をもち、今日では多国籍な雰囲気が漂う繁華街として知られる仲町通りですが、在りし日の面影を伝える老舗も少なくありません。江戸時代から現在につづく時代ごとの賑わいが混在する街並み、それこそが仲町通りの魅力となっています。